死への恐怖を和らげる方法

人は盲目であり、それ故に幸福である。

それを知って、心が落ち着いてきました。

何故今まで心が落ち着いていなかったのかというと、死ぬことが怖くて、それについていつどんな時も考えていたからです。

自分は死ぬと、存在が曖昧になります。最終的に世界と同化するわけです。

それは何も見たり、感じたり出来なくなるということです。考えることもできなくなります。

死はかつて深い眠りに例えられていました。死によってずっと眠り続けることになるのだと。

ですが、現在の知識からすると、眠っても存在は消えませんが死は存在すら消してしまうように感じます。

私にとって、自分の存在が消えてしまうことは恐ろしかったので、そしてそれが避けられない運命であるので、ずっと怖がっていました。

ただ、最近になり、死について考えないことが出来るようになりました。

これは、死ぬことを恐れないという意味ではありません。今でも死は一番重要な危機であり、避けたいものであります。ただ、考えるのを止めることが出来るようになりました。

自分の心の中に、「考えることが不可能なこと」カテゴリーが出来て、そこに死が当てはまるようになったのです。

ここに至るまでに、自分の考え方に様々な変化がありました。

特に、「知識」についてです。

知識とは何でしょうか。私はかつて知識をこのように捉えていました。

昔からある神話です。


神様が作った楽園に、人間が住んでいました。その楽園には、さまざまな果実が芽生え、働かずして生活することが可能でした。

その果実の中に、「善悪の知識の実」がありました。その果実は、神によって食べることが禁じられていました。食べたら死ぬともいわれていました。

ある日、悪魔が人間に近づき、こうそそのかしました。

「善悪の知識の実を食べても死ぬことはない。むしろ目がさえて、善悪の知識を得ることが出来る。」と。

それを聞いて人はその実を好ましく思い、食べました。するとどうでしょう、目がさえ、自分のことが分かるようになりました。

今まで人間は裸で暮らしていたのですが、そのことも分かるようになりました。人は裸であることを恥じ、イチジクの葉で腰覆いを作りました。

ある日神様が人を探すと、人は姿を見られることを恥ずかしがり隠れました。その様子から、神は人が善悪の知識の実を食べたことを知りました。

この日以降、人は善悪を自分で判断するようになった代わりに、死ぬようになりましたとさ。


昔の人は人が知識をこのように獲得したと考えていました。私は幼い時から神話に親しんでいたので、知識について似たようなことを考えていました。

つまり、知識がないと、人は「見る」ことが出来ないということです。知識によって人が裸であることを認識したように、知識によってはじめてものが認識できるようになる、と考えていました。

これはつまり、周りのものを理解するためには知識が必要であるということを意味します。

また、知識があると様々なことを認識できることも意味します。

それ故に、私は知識を得ようとしました。自分や自分の周りのものを認識するために。

また、分からないものがあったら、それは知識が足りないからだと理解しました。

全ての知識を得ることが出来ればすべてを理解できる、と考えていました。

私にとって、「死」は理解できないものでした。

他人の死は理解できますが、自分の死を理解することはできませんでした。

自分が死んだらどうなるのか、経験を語れる人はいません。

そこで、死についての知識を得ようとしました。死について、常に考えることになったのです。

今から思うと、まったく不毛な日々でした。来る死について常に恐怖を抱くのは。


どのようにしてこのような不毛な思考から抜け出せたのでしょうか。より正しい知識を得、それに基づいた世界観を確立したからです。

上述の「神話」は、かつての私にとっては事実でした。自分の世界では、天使と悪魔が飛び交っていたのです。

今でもそのような世界観を持っている人はいるとは思いますが、私は色々あってそのような世界観から脱却し、より科学的な世界観を持つようになりました。

この科学的な世界観では、「知識」は違ったものとしてとらえられます。

知識について説明する前に、世界観について説明しましょう。

この世界観では、ある信仰を持つことが必要になります。

科学的なのに信仰を持てとは何事かと思うかもしれませんが、公理を正しい"とする"という部分が信仰をもつことと同義だと思います。

その信仰は以下の通りです。

「自分が所属している世界が存在する。全ての人が所属する世界は同一である。世界は感覚を通じて認識されるが、人間の感覚は必ずしも正しくなく、世界の方が正しい。」

最後の一文が重要です。自分の感覚より、何か絶対のものがあることを示しているからです。

かつては神がその座を占めていましたが、今その座を占めているのは世界そのものなのです。

こうなってくると、「知識」の捉え方が変わってきます。

かつては、「知識」がないと、正しい認識を得ることは出来ない、と理解していました。人間が裸を理解できなかったように。

しかし、「正しい認識」というものはそもそも存在しないのです。存在するのは世界であり、世界の中である認識を得た自分なのです。

人が裸であるということを認識するのは正しい認識ではなく、裸の人が存在し、彼は自分が裸だと感じたと認識するのが正しいのです。

世界というのは、自分一人の認識だけが存在するものではないのです。むしろ自分の認識というのは、宇宙の中にある一人の人間のなかにしか存在しないものなのです。

ではそのような世界の中で、知識とはどのようなものなのでしょうか。

世界全てを理解するというのは不可能です。自分の頭の中に世界を詰めることは出来ないからです。

自分自身を全て理解することも不可能です。思考は自分の体の一部であり、体が思考の一部ではないからです。

それでも自分のことはある程度理解しているし、身の回りの世界もある程度理解しています。そうでなければ生活を送れないでしょう。

なぜ自分は自分や世界のことを理解できるのでしょうか。それは、世界や自分を、「正確ではないが大体あっていて、より楽に覚えられるもの」、つまり、モデル化や抽象化を行って理解しているからです。

全てのものは、グループとして認識されます。水は水であり、火は火、木は木として認識されます。グループは重なり合ったり、階層的だったりします。

知識とは、そのようなモデル化や抽象化を効率よく行う方法なのです。

世界の中には、法則が隠れているように見える部分が多々あるのです。その法則に従えば、抽象化が効率よく行われ、より多くのことを理解できるのです。

自分が思考に使えるリソースは限られており、その限られたリソースで最大限正確に世界を理解するために知識が存在するのです。

こう考えると、世界と照らし合わせて本当に正しい知識は存在しないことが分かります。あるのは、より正確な知識だけです。

従って、"正しい"知識を追い求めるのは不毛なのです。


ここまでくると、なぜ「死」について考え続けるのが不毛なのかがわかります。

自分の存在は有限であり、考えても理解できないものが存在するのも当然です。

死は、理解できない方のカテゴリーに属しているのですから。

死が恐ろしいのは仕方ないですが、考えてもしょうがないということです。


ここからはある種の妄想です。

「死」について考え続けるのが不毛なのは分かった、でもそれじゃあ死が怖いのは解決できないじゃないか、と思う方も多いでしょう。

その恐怖を少しでも和らげる方法として、こんな妄想を考えました。

正しいのは世界であり、自分の妄想ではないという妄想です。

人間は未来を視ることが出来ません。

分かるのは常に現在だけです。

そして、死というのは常に未来に存在します。

その死について、正しく理解することは出来るでしょうか。

実際に死なないと理解できないのじゃないでしょうか。

どんな悲観的な死への認識も、どんな楽観的な認識も、全て正確ではありません。

だから、あなたの死への認識、恐怖を抱く認識もまた、間違っているといえるでしょう。

自分が正確な知識を持っていないということは、死への恐れを過度に持つ人にとっては救いです。

逆に死を楽観視している人にとっては、警告でもあります。

なんであれ、生きているときに言えることは、今がその時ではないということだけです。

今は今に集中して、「その時」が来たら、観察をしようと思います。

「ビデオゲームの美学」を読んで

ゲームには1つの統語論と2つの意味論があるらしい.それについて軽く説明した後この本を読んだ感想を述べる.

統語論

統語論とは何か.プログラミングだったら,何が文(statement)かを定めるものが統語論(syntax)になる.Cでプログラムを書く時にどこにセミコロンをつけるべきか,どこにかっこをつけるべきかとかを示すのが統語論となる.

ビデオゲームの場合,ディスプレイ上にかかれてある画像*1が,どこまでが一つのまとまりで,またそのまとまりが何を表すかを示すものとなる.ゲームにおけるディスプレイ上に表示される2次元データのtokenizerが統語論だということだろう.

統語論では,ディスプレイ上の要素の意味までは深く読まない*2.どのように表示されるかの問題を取り扱うことになる.

意味論

意味論とは何か.プログラミングだったら,ASTから機械語にプログラムを変換する過程が意味論になるだろう.ある変数や関数がどこにあるか,ある構造体のメンバは何か,関数の型が適切かとかを判断するのが意味論になると思う.

ビデオゲームにおける意味論とはなにか.統語論によって区切られたディスプレイ上の画像が,何を意味するのかを考えることが意味論になるだろう.例えば,ポケットモンスターで戦闘中に表示される緑のバーが何を意味するのか,PPは今いくつか,レジスチルはどうして封印されたのか,などが挙げられるだろう.

2種類の意味論

ビデオゲームにおいて,画面に表される記号から読み取れる意味には2つのドメイン——虚構世界とゲームメカニクス——があるという.それぞれどういうものか見てみよう.

虚構世界

虚構世界とは,あるフィクションにおける世界のことである.スーパーマリオブラザーズならばキノコ王国が存在し,ピーチが存在し,マリオが存在する世界のことになる.ポケモンなら,カントー地方が存在し,ポケモンジムがあり,チャンピオンが存在する世界である.

ビデオゲームにおいては,虚構世界において物語があることもある.ピーチ姫がクッパにさらわれた,等々.

ゲームメカニクス

ゲームメカニクスとは,ゲームのルールなどのように,現実においてプレイヤーの行為を形作る制度のことである.

将棋でいえば,駒の種類,それぞれの移動できる場所,手番の定義,勝利条件といったルールや,現在の盤面を記憶したものがゲームメカニクスになる.

ビデオゲームにおいても,ゲームとほぼ同じようにゲームメカニクスが存在する.しかしビデオゲームでは目標がない場合がある点,ゲームの状態やルールがPCなどのハードウェアによって管理される点が特徴的といえる.

感想

ハーフリアルから進んでよりかちっとビデオゲームの構成要素を記述しているなという感じがする.

ただこの本はビデオゲームを美的に探求するための道具を提示しているだけなので,作る時にどう生かすかは自分で考えないといけない.

いくつかトピックを考えてみた.

虚構世界とゲームメカニクスの結びつきをうまくとるためにどうするか

ゲームメカニクスは虚構世界にある語彙で説明されることが多い.例えばポケモンの戦闘は,毎ターン「わざ」を選択し,自分の「ポケモン」と相手の「ポケモン」の「タイプ」と「わざ」の「タイプ」に応じてHPを減らしていき,先に相手の「ポケモン」のHPを0にした方の勝ちとなるゲームだが,このゲームの説明にはフィクションとしてのポケモンの世界の語彙が使われることになる.したがって,虚構世界はゲームメカニクスと対応が取れる必要がある.

また,虚構世界はゲームメカニクスによってシミュレーションされることになる.例えば,ポケモンにおける戦闘で自分のポケモンが技を回避したかどうかは,アニメのポケモンのように「よけろ!ピカチュウ!」という命令を与えるのではなく,相手のわざの命中率とこちらのポケモンの回避率にしたがってシミュレーションされることになる.したがってゲームメカニクスによってシミュレーションされる虚構世界があまりにもおかしいものだと,うまい虚構世界のシミュレーションとは言えなくなる.(ゆうしゃが人の家にはいってタンスのたなを荒らしても何も言われないのは,ドラクエの世界ではそれが許されるからなのか?とか.ポケモンの世界の賞金は相手の手持ちの半額を奪ってるのか?とか)

これはゲームメカニクスが現実に近いことが良いというわけではなく,遊んでいて面白く,かつゲームの虚構世界のリアルとの対応がとれているゲームメカニクスが良いということになる.虚構世界については,ゲームメカニクスから想像を膨らませやすい虚構世界が良いということになる.Splatoonでキャラクターがイカだから,インクの中を泳いでもおかしく感じないし,イカと人の姿を切り替えて戦うことに虚構的な現実味が出るのだと思う.それゆえにゲームメカニクスと虚構世界は切っても切り離せない関係にある.

じゃあ開発をするときにどうすれば良いのか,基本的には,虚構世界かゲームメカニクスどちらかが先行して作られ,それに合わせて他方を調整するサイクルを繰り返すことになる.

ゲームメカニクス側から虚構世界に影響を与えた例といえば,もともと通せんぼをするキャラクターとして開発されたカビゴンなどが挙げられる. 虚構世界がゲームメカニクスに影響を与える例としては,スマブラで各キャラが持つワザやパラメータの方向性が,もともと登場していたゲームで使っていた技やそのゲーム内における印象によって決められることなどが挙げられる.

ゲームメカニクスと虚構世界どちらからゲームを作る方が良いか,どちらを優先するべきか,には正解がないと思う.しかしビデオゲームビデオゲームという一つのものとしてとらえるのではなく,虚構世界とゲームメカニクスという風に分解して捉え,あるキャラクターやプログラムがその2つの意味論にどのように影響しているのか考えながら制作することは意味があると思う.

ゲームの統語論——画面と音声の構成——をどうするか

意味論と切り離された統語論としての画面(および音声)は,プレイヤーに情報を与えるという意味では最重要なものだと思う.なぜなら,統語論は意味論へのインターフェースとなるし,ワンダールクスでいう情報と反応のレイヤを担うものでもあるからだ.*3

もちろん,プレイヤーが実際に遊ぶ(ゲーム行為をする)のはゲームメカニクスなので,統語論は遊ぶ対象ではない.しかしビデオゲームは機械によってゲームメカニクスが管理されるので,ゲームメカニクスがインターフェース——画面と音声,つまり統語論——を通じてしか知ることができず,ゲームメカニクスブラックボックスになってしまう.勿論そのビデオゲームをやり込んだゲーマーなら統語論なしでも遊べなくはないのだが,誰しも初めはそのゲームの初心者であるので,ゲームメカニクスを知るために統語論は重要となる.

統語論がゲームメカニクスとプレイヤーとのインターフェースになるということは,ワンダールクスでいう情報と反応のレイヤにおいてもっとも重要であるということになる*4 .これはプレイヤーにゲームメカニクスを伝えるという意味で,後続のレイヤの面白さを損なわせないために重要となる.

統語論がしっかりとしていないとフラストレーションが溜まることになる.ビデオゲームではないが,カードゲームで例を挙げたい.デュエルマスターズで遊ぶときに,実際のカードで遊ぶのと,ホワイトカードに文字を書いて遊ぶのではどちらが楽しいか.ゲームメカニクスという点ではどちらも変わらない.しかしホワイトカードの方は情報を拾うのが難しく,遊びにくくなる.というのも,TCGで遊ぶときは大抵キャラの絵でカードの種類を判断するのだが,テキストだけだとそれができず盤面を把握するのに時間がかかるのだ.また色が分かりにくいとマナとしてのカードの色が分からなかったり,とにかく面倒になる.

統語論によってプレイヤーに伝わる情報は変化する.それによってゲームのメカニクスも変わりうるだろう.マリオカートで対戦中に相手の画面が見えているか,見えていないかは統語論的な変化だろうが,それによって相手のアイテムが見えるかどうかが変化する.これによって相手がパタパタこうらを持っているから先頭から降りる,サンダーを相手がアイテムを取った瞬間に使うなどといった戦略が生まれ,自分の戦略に変化が生じる.

ゲームメカニクスをゲーム行為のデザインととらえる場合,プレイヤーに伝わる情報の変化によってプレイヤーの信念が変化することになり,統語論がゲームメカニクスに影響を及ぼすことになる.

上述の理由によってゲーム制作において統語論のデザインが重要になるだろう.

終わりに

ビデオゲームの美学」はビデオゲームについて語るための語彙が増えるので良い本だった.今回は1つの統語論と2つの意味論に焦点を当てたけど,本ではそれらのドメインの繋がり方を空間的および時間的に解説していたりもするので,そのへんも面白い.

あとあとがきによるとこの本は「ハーフ・リアル」と「芸術の言語」の組み合わせになっているらしく,自分は「ハーフ・リアル」しか読んだことがないが,「ハーフ・リアル」とは確かに内容が関連していた.だから先に「ハーフ・リアル」を読むと,特にゲームについて分析したい人には良いと思う*5

*1:もちろん,ディスプレイ上以外の要素——bgm,se,振動など——も統語論における要素ではあるが,メインの要素はディスプレイになる

*2:そういう意味でもtokenizerと同じである.つまり画面の構成要素としてこれがどういうトークンとして認識されるかだけを考えることになる.

*3:なお,リンク先の文章は01号の同人誌に載っていたバージョンで,02号版の理論では少し理論に変更が加えられている.具体的には,各レイヤの定義をフレーム時間によるものから変更し,プレイヤーが画像や音声として与えられた情報を何と結びつけるかが重要であるとしている.

*4:もちろん全ての情報がインターフェースを通って伝わるのだが,一番インターフェースが重要なのが情報と反応のレイヤだろうということ

*5:ゲームを一つの芸術の一形態として見たり,ゲーム以外の芸術との関連性を見たい場合は「芸術の言語」を読むのがいいのかもしれない.自分は読んでないのでわからないけど.

現在の状況と、いろんな人に対して思うこと

くそ読みづらいポエムを読んでいただきありがとうございます.

現状を述べたのち,また宗教についてポエムを書きます.

現状

ただひたすらに辛いという状況からは脱しました.

そして何かすがるものへの執着心もだいぶなくなりました.

今後の人生をうまくやるために動いていこうと思います.

宗教をキメる人間に対して思うこと

今一度,「なぜその宗教が正しいと思ったのか」思い返してほしい.

その宗教を信じる人間が誠実だからか?

自分が,「神が存在する!」と思うような経験をしたからか?

いくつかの過去の出来事が,その宗教が正しいことを表しているからか?

……どんな理由であっても,信頼するには不十分だ.

なぜなら,宗教は確信を求めるからだ.

100%正しいと思うことを求めてくるからだ.

そんなものはこの世にあると思いますか?*1

……それでも,正しいものはあると思う人は,再度自分がなぜその宗教を信じるようになったのか思い出してほしい.

その経験は,自分の思い込みではなくて本当に正しい経験なのか.

環境が異なっても同じように思うのか.

自分の頭の中で実験してほしい.

疑うことは悪くない.疑いに打ち勝つ正しさこそが重要だからだ.

実験の末,それでも正しいと思うなら,私から言うことは何もない.

宗教をキメようと思う人に思うこと

やめたほうがいい.この世に神秘は存在しない.

自分を含めた数少ない人だけに分かる真理,のようなものはない.

たしかに科学や工学が確実に正しいわけではない.

だからといって宗教が正しいということにはならない.

まだ科学を信用した方がましだ

自分の属していた宗教について思うこと

今思い返すと色々とヤバい宗教だった.

「信者同士でしか仲良くしないようにする&信者になった人が宗教をやめるときには信者全員が縁を断つ」という,一度信者のコミュニティに依存したら一生出られない構造はおかしいと思う.

それと教義が科学的ではないので,教義を幼い子供に教えるのは科学教育に影響がある*2だろう.

あと体罰を推奨するのはダメ,絶対*3

僕の周りの信者は基本まともな人しかいなかった.

しかし信者がまともだからといって教義がまともとは限らない,ということだ.

いわゆる宗教2世に対して思うこと

お疲れ様です。僕と同じ境遇かは分かりませんが、お疲れ様です。

僕の場合は、「なんかこの宗教は間違って感じるけど、本能はこの宗教があってると感じている」状態で、苦労しました。

宗教の世界観から抜けきれない場合、自分の生き方が間違っている!と感じてしまうので辛いんですよね。

はじめからこの宗教がおかしいと感じていた人も、家庭や周りの信者から逆風を感じる人生だったと思うので、お疲れ様です。

なんとか人生をやっていきましょう。

さいごに

こういう境遇の人間もいるということを知って欲しかったので,書きました.

それにこれを墓場まで持っていくのもしんどいので.

おしまい.遊びてー

*1:科学的なものは確実に正しいと思えるかもしれない,しかしそれも公理の正しさを信じるが故に正しいのだ.ある種科学も宗教に似ているが,相違点は疑うことを許すかどうかと,公理や定理が誤まっていたときのロバスト性だろう.

*2:自分の場合あった.クソ

*3:最近はトーンを落としているらしいが自分の場合あった.これもクソ

とある宗教2世の半生と休学について

真理は存在せず、今ここにある世界が存在する。


休学した理由について話すために、まずは「真理」について話させてほしい。


かつて私は、真理なるものが存在すると信じていた。

真理とは、人類、宇宙、すべての答えを表すなにかであり、人生の目的を示唆してくれるものである。


生まれたときに、私には真理が与えられた。

その真理とはこうだ。

「この世界にはただ一人神が存在する。神に従って生きるのが人間にとって最善の生である。」

事実それは正しいように思われた。

私の周りの人はみなその真理に従って生きており、みな幸せそうだったからだ。

幼かった私は、その真理を信じた。


小学生になり、近所の小学生と接触するようになった時、不思議な体験をした。

彼らは真理を信じてはいなかった。

私はなぜ彼らが真理を信じないのか分からなかった。

周りの人は、それは真理を正しく伝えられていないからだと言った。

また悪魔が人々に真理を分からなくさせているとも言っていた。

私は悪魔の存在を信じ、悪魔を恐れた。

また真理をうまく伝えられるようになろうと決意した。


中学生になり、私は現実に興味を持たなくなった。

神がこの世の中を滅ぼすとあり、この世の中にあるものは全てなくなってしまうからだ。

その時が来れば、金も地位も名誉も、すべてが無くなり、忘れ去られてしまう。

そしてその時が近いと、周りの人々は警告していた。

したがって、現実を無価値なものと思い、興味を持たなくなった。


高校生になり、私は他人に興味を持たなくなった。

他人と親しくしてはいけなかったし、他人と親しくはなれなかった。

周りの人々は、他人は悪魔の影響下にあり、親しくすると自分も悪魔の影響を受けると警告した。

しかし私は他人と親しくなりたかった。だが出来なかった。真理が邪魔をしたのだ。

私にとって一番重要なのが真理だった。ゆえに親しい人には私の真理を伝えることにした。

しかし真理を伝えると、他人は私を気が狂っていると判断したのだ。

ゆえに私は他人と親しくすることを諦めた。


大学生になり、私は焦っていた。信仰を確立することが出来なかったからだ。

私は素朴な信仰を持っていた。子供の時の体験に基づく信仰だ。

私にとって、真理は正しく見えた。しかしそれは私特有の経験に基づくものであって、他者と共通の基盤にできるものではなかった。

真理に従うにはそれを全ての人に広めなければならなかった。

しかし私は他者を納得させることが出来るだけの理由を持ち合わせてはいなかった。

ゆえに研究をし、聖典を調べた。また、真理に影響を与える部分では歴史を紐解いた。

信者が書いたものでない資料は大抵、真理は嘘であると言っていた。しかしこのような反応は慣れっこだった。

「周りの人は悪魔の影響下にあるのだから、周りの人の主張には正しいところはあれども、間違っている部分があるに違いない」

こう判断するのが我々にとって一般的だった。

だがしかし、真理を信じるには非常にたくさんの事実を「悪魔の影響によってゆがんだ認識を人間が持っている」ことにしたり

神の万能性によって解決する必要があることが分かった。


それでも私は、ある種すがるように真理を信じていた。

私の真理は諸刃の剣だった。

「神に従って生きるのが人間の最善の生である。(そしてほかの生き方は全て無価値な最悪の生である)」

真理を信じない生は、我々にとって無価値な生き方なのだ。

だからこそ、我々は真理を信じようとし、真理に従って生きようとするのだ。

それゆえに、研究をし、その結果が悪かったとしても、私は真理を信じようとしたのだ。


転機は突然現れた。

一冊の漫画と、一つの授業が、私の素朴な信仰を拭い去ったのだ。

幼かったころの私の実感、「自分を含む周りの人はみな幸福で、神を信じる生き方が最善である。」という実感が、実は誤りだったということが突如として分かったのだ。

私の実体験を、世間一般の目線で見てみたら、幼いころの経験は到底ひどいものであることが分かったのだ。

それによって素朴な信仰が消え、私の真理は失われた。


物語だったら「『まとも』になって良かったね」でおしまいと行きたいところだが、現実ではそうはいかなかった。

真理とともに多くのものが失われたのだ。

信者同士の連帯感、神という名の仮想友人、生存の目的。

幸せだった過去の記憶、漠然とした将来への期待感、等々。

全てを埋め合わせることは、死ぬまでできないだろう。


今までも、真理に沿って生きるために精神的に無理をやってきていたのだが、喪失感と悲壮感が加わり、がたが出てきたしまった。

今はなんとか生存をしている状態だ。学業より生存を優先して、休学したというわけだ。


この喪失感から脱出するためには何が必要なのか、考えた。

真理が失われて辛いのだから、新たな真理を得れば良いのだと。

それから、新しい真理を得るために、いろいろ考えを巡らした。

その結果、自分の望んだ「真理」というものは決して得られないと悟った。


私の周りの人はみな真理を確信していた。確信に至る「体験」によって。

大抵の場合、祈りが聞かれたと確信した時、神の存在を確信していた。

自分の経験によって真理を確信するに至っていた。

私は自分を信用していないので、自分の経験を信用できなかった。

自分の認知力を疑っていたので、自分の経験を疑った。

だからこそ、「体験」より確実なもので真理を得たかったのだ。

しかしそれは不可能なものだった。

全てのものは自分にとって、自分の体験なのだ。

どのような手段で知識を得るとしても、その正誤を判断するのは自分なのだ。

故に、自分が思う真理の確かさは、自分の知識によって制限されることになるのだ。

それがたとえ"神"から与えられた知識であってもだ。

故に自分が全幅の信頼を置けるような真理は存在しない。

あるのは灰色の現実と、それを望まない自分だった。


結果としてありもしない真理と、真理がもたらす安息への執着心だけが残った。

得られぬものへの渇望、これほど空しいものはない。

一度現世への欲を捨てた人間が、現世を生きねばならぬとは。

いや、むしろ欲を捨てられなかったから、このようになったのか?

何もわからない。

とりあえず、やすむことにする。


その後→ 現在の状況と、いろんな人に対して思うこと - ポエムとか書くブログ

二分音符対旋律の要点

断り

これは自分が二声二分音符対旋律を作るときのメモ書きです.正しいor有用かは分かりません.

二分音符対旋律とは

全音符からなる旋律に対して,二分音符で合わせる旋律のこと.

冒頭,結尾の形式

冒頭

開始タイミング

二部休符の後に始まる.つまり裏拍から旋律が開始される.

開始の音

8度(主音)あるいは5度(属音)で始まる.1度で始めることもできる.

結尾

導音(7度)を経由して,8度あるいは1度の全音符で終わる.

下声に旋律がある場合,属音を経由して終わるのも可能.

強拍,弱拍の形式

強拍

その小節における和音構成音でなければならない.

各和音は,基本形又は第一展開系であるとされるので,

基本形に属する音程(8,3,5度)又は

第一展開系に属する音程(8,3,6度)

でなければならない.

弱拍

弱拍は,経過音,刺繍音,ないし和音構成音で作られる.

旋律を作る際の禁則等

注意

教科書(池内 友次郎,二声対位法)に書いてある全部は上げてません.自分に必要な奴だけです.

生硬な旋律を避ける

教科書では,避けるべきものとして「生硬な(旋律)」というワードがよく出てくる.禁則はそれらを避けるためにあるらしい.

旋律動向と和声動向

旋律は,一つの旋律を時間方向で眺めたときの話.

和声は,同一時間にある複数の旋律からなる和音の話(周波数方向で見る).

旋律動向

短2度

基本的に定旋律(全音の旋律)に短2度で触れる旋律はダメである.短2度は確かに汚い感じがするが,二分音符ではその響きが残るからダメらしい.

おんなじことをあんまりするな

和音構成音を多用するな.

同方向へ跳躍進行するな.

同型反復するな.

刺繍音で同一音を旋回するな.

8度跳躍を連続するな.

和声動向

おんなじことをあんまりするな

3度6度の音程が響きが良いけど使いすぎないようにする(4回連続はやめようとのこと).

5度8度を強拍で連続するな.

直行(旋律が同じ方向へ動くこと)における禁則

直行で5度8度をもってくるな.

弱拍においても直行なら5度8度を連続させるな.

作ってみて思うこと

5度8度と3度6度の雰囲気の違い

5度8度は音が濁らない.特に8度の場合.

これは定旋律が低い(C1とかそれより下ぐらい)場所にあるとき,濁ると嫌な感じがするのでそれを消すのに役に立つ.

逆をいうと5度8度は和声みが少なく,旋律がいい感じに混じり合ってる感がない.

旋律間の音程の距離の話

バスとソプラノの旋律の場合,音域が離れているので,濁りとか和声みとかを考える必要があまりない(と今は思っている).

バスとテノールとか,近い音域の場合は和声っぽくなるのでより気にする必要がある.

終わりに.

まだまだこれからやなあという気持ち

ネパールとネパールのカレー(ダルバート)について

これはなんですか

この記事はEEIC Advent Calender の記事です(遅刻しました).

EEICとは,東京大学の電気系2学科の集まりのことです.

Advent Calenderとは, クリスマスまで一日ずつお菓子が入っていて毎日お菓子を食べて楽しむことが出来るカレンダー をモチーフにした,お菓子の代わりに面白い記事を一日ずつ公開して楽しむ風習です.

何故カレー?

僕が書ける他の人があまり書けない記事ってなんだろうと自問した結果,カレーになりました.

中々ネパールに行ってカレーを食べる人はいないんじゃないかと思ったので ネパールで食べてきたカレーの記事になりました.

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