死への恐怖を和らげる方法

人は盲目であり、それ故に幸福である。

それを知って、心が落ち着いてきました。

何故今まで心が落ち着いていなかったのかというと、死ぬことが怖くて、それについていつどんな時も考えていたからです。

自分は死ぬと、存在が曖昧になります。最終的に世界と同化するわけです。

それは何も見たり、感じたり出来なくなるということです。考えることもできなくなります。

死はかつて深い眠りに例えられていました。死によってずっと眠り続けることになるのだと。

ですが、現在の知識からすると、眠っても存在は消えませんが死は存在すら消してしまうように感じます。

私にとって、自分の存在が消えてしまうことは恐ろしかったので、そしてそれが避けられない運命であるので、ずっと怖がっていました。

ただ、最近になり、死について考えないことが出来るようになりました。

これは、死ぬことを恐れないという意味ではありません。今でも死は一番重要な危機であり、避けたいものであります。ただ、考えるのを止めることが出来るようになりました。

自分の心の中に、「考えることが不可能なこと」カテゴリーが出来て、そこに死が当てはまるようになったのです。

ここに至るまでに、自分の考え方に様々な変化がありました。

特に、「知識」についてです。

知識とは何でしょうか。私はかつて知識をこのように捉えていました。

昔からある神話です。


神様が作った楽園に、人間が住んでいました。その楽園には、さまざまな果実が芽生え、働かずして生活することが可能でした。

その果実の中に、「善悪の知識の実」がありました。その果実は、神によって食べることが禁じられていました。食べたら死ぬともいわれていました。

ある日、悪魔が人間に近づき、こうそそのかしました。

「善悪の知識の実を食べても死ぬことはない。むしろ目がさえて、善悪の知識を得ることが出来る。」と。

それを聞いて人はその実を好ましく思い、食べました。するとどうでしょう、目がさえ、自分のことが分かるようになりました。

今まで人間は裸で暮らしていたのですが、そのことも分かるようになりました。人は裸であることを恥じ、イチジクの葉で腰覆いを作りました。

ある日神様が人を探すと、人は姿を見られることを恥ずかしがり隠れました。その様子から、神は人が善悪の知識の実を食べたことを知りました。

この日以降、人は善悪を自分で判断するようになった代わりに、死ぬようになりましたとさ。


昔の人は人が知識をこのように獲得したと考えていました。私は幼い時から神話に親しんでいたので、知識について似たようなことを考えていました。

つまり、知識がないと、人は「見る」ことが出来ないということです。知識によって人が裸であることを認識したように、知識によってはじめてものが認識できるようになる、と考えていました。

これはつまり、周りのものを理解するためには知識が必要であるということを意味します。

また、知識があると様々なことを認識できることも意味します。

それ故に、私は知識を得ようとしました。自分や自分の周りのものを認識するために。

また、分からないものがあったら、それは知識が足りないからだと理解しました。

全ての知識を得ることが出来ればすべてを理解できる、と考えていました。

私にとって、「死」は理解できないものでした。

他人の死は理解できますが、自分の死を理解することはできませんでした。

自分が死んだらどうなるのか、経験を語れる人はいません。

そこで、死についての知識を得ようとしました。死について、常に考えることになったのです。

今から思うと、まったく不毛な日々でした。来る死について常に恐怖を抱くのは。


どのようにしてこのような不毛な思考から抜け出せたのでしょうか。より正しい知識を得、それに基づいた世界観を確立したからです。

上述の「神話」は、かつての私にとっては事実でした。自分の世界では、天使と悪魔が飛び交っていたのです。

今でもそのような世界観を持っている人はいるとは思いますが、私は色々あってそのような世界観から脱却し、より科学的な世界観を持つようになりました。

この科学的な世界観では、「知識」は違ったものとしてとらえられます。

知識について説明する前に、世界観について説明しましょう。

この世界観では、ある信仰を持つことが必要になります。

科学的なのに信仰を持てとは何事かと思うかもしれませんが、公理を正しい"とする"という部分が信仰をもつことと同義だと思います。

その信仰は以下の通りです。

「自分が所属している世界が存在する。全ての人が所属する世界は同一である。世界は感覚を通じて認識されるが、人間の感覚は必ずしも正しくなく、世界の方が正しい。」

最後の一文が重要です。自分の感覚より、何か絶対のものがあることを示しているからです。

かつては神がその座を占めていましたが、今その座を占めているのは世界そのものなのです。

こうなってくると、「知識」の捉え方が変わってきます。

かつては、「知識」がないと、正しい認識を得ることは出来ない、と理解していました。人間が裸を理解できなかったように。

しかし、「正しい認識」というものはそもそも存在しないのです。存在するのは世界であり、世界の中である認識を得た自分なのです。

人が裸であるということを認識するのは正しい認識ではなく、裸の人が存在し、彼は自分が裸だと感じたと認識するのが正しいのです。

世界というのは、自分一人の認識だけが存在するものではないのです。むしろ自分の認識というのは、宇宙の中にある一人の人間のなかにしか存在しないものなのです。

ではそのような世界の中で、知識とはどのようなものなのでしょうか。

世界全てを理解するというのは不可能です。自分の頭の中に世界を詰めることは出来ないからです。

自分自身を全て理解することも不可能です。思考は自分の体の一部であり、体が思考の一部ではないからです。

それでも自分のことはある程度理解しているし、身の回りの世界もある程度理解しています。そうでなければ生活を送れないでしょう。

なぜ自分は自分や世界のことを理解できるのでしょうか。それは、世界や自分を、「正確ではないが大体あっていて、より楽に覚えられるもの」、つまり、モデル化や抽象化を行って理解しているからです。

全てのものは、グループとして認識されます。水は水であり、火は火、木は木として認識されます。グループは重なり合ったり、階層的だったりします。

知識とは、そのようなモデル化や抽象化を効率よく行う方法なのです。

世界の中には、法則が隠れているように見える部分が多々あるのです。その法則に従えば、抽象化が効率よく行われ、より多くのことを理解できるのです。

自分が思考に使えるリソースは限られており、その限られたリソースで最大限正確に世界を理解するために知識が存在するのです。

こう考えると、世界と照らし合わせて本当に正しい知識は存在しないことが分かります。あるのは、より正確な知識だけです。

従って、"正しい"知識を追い求めるのは不毛なのです。


ここまでくると、なぜ「死」について考え続けるのが不毛なのかがわかります。

自分の存在は有限であり、考えても理解できないものが存在するのも当然です。

死は、理解できない方のカテゴリーに属しているのですから。

死が恐ろしいのは仕方ないですが、考えてもしょうがないということです。


ここからはある種の妄想です。

「死」について考え続けるのが不毛なのは分かった、でもそれじゃあ死が怖いのは解決できないじゃないか、と思う方も多いでしょう。

その恐怖を少しでも和らげる方法として、こんな妄想を考えました。

正しいのは世界であり、自分の妄想ではないという妄想です。

人間は未来を視ることが出来ません。

分かるのは常に現在だけです。

そして、死というのは常に未来に存在します。

その死について、正しく理解することは出来るでしょうか。

実際に死なないと理解できないのじゃないでしょうか。

どんな悲観的な死への認識も、どんな楽観的な認識も、全て正確ではありません。

だから、あなたの死への認識、恐怖を抱く認識もまた、間違っているといえるでしょう。

自分が正確な知識を持っていないということは、死への恐れを過度に持つ人にとっては救いです。

逆に死を楽観視している人にとっては、警告でもあります。

なんであれ、生きているときに言えることは、今がその時ではないということだけです。

今は今に集中して、「その時」が来たら、観察をしようと思います。